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Posted on 2014-06-12「樹木」だけがしていること
光合成で炭素を長期的に固定できるのは、
地球上のありとあらゆる生命体の中で「樹木」だけである。
この地球上で、人はじめ樹木以外の生命体はコップの水をこぼし続けていて
それをきれいにコップの中に戻すことをしているのは「樹木」だけである。
Posted on 2014-06-12自然エネルギーワークショップ「エネル樹」
薪をくべて暖をとる。
柱を立てて家をつくる。
削ったハシでご飯を食べる。
森のめぐみを生活に取り入れてきた人類にとって
「森自体がエネルギー」と言えるのではないでしょうか。
Posted on 2014-06-12無垢はなぜあたたかいと感じるのか
無垢は気持ちがよい。
無垢は柔らかくてあたたかい。
人はなぜ無垢が良いと思うのか。
そこには自然素材で精神衛生上思考に働きかける部分が大きいかもしれないが、
感覚として何か親和性を感じ取っているのは間違いない。
分子的に木材の構造を見たときに、木がその他の物質と明らかに違うのが
「リグニン」という複雑な構造の分子を有していること。
木が沿ったり、色が変わったり、環境応じて変化するというのは
このリグニンの構造が変化しているからである。
人の顔ばかり伺う社会にとって制御しきれないものは都合が悪い。
だから、曲がったり変化したりするものは嫌われる。
しかし、プラスチック等、自分で環境に適応できなければ
そのストレスに耐えられず割れてしまう。
一方、木はストレスを開放し、柔軟に環境に適応できるのであるから
本質的な見方をすれば、これほど都合の良いものはないはずだ。
変化することに対する責任転嫁の所在を気にするのだろう。。
「不安」な心理は「安定」を求めて「固定」の中に「永遠」を見いだそうとする。
しかし、変化に適応することは「ストレス」を開放し続けるということで
それは変化し続ける状態の中に永遠があるのかもしれない。
人は、頑に固定する樹脂よりも、ストレスを開放し続けているリグニンを
感覚的に親和性を感じているのではないか。
Posted on 2014-06-11mockmock | 東京の木を使った天然無垢・手作りの木育こども家具
Posted on 2014-06-10森は守るべきものなのか
森を守らなければならない。そう漠然とした概念が当たり前になっている。
でも本当に守らなければいけないのか。頭で理屈はわかっていたとしても
その切な実感が心に根をおろしている人はいるのだろうか。
私たちが森を守ろうが守ろまいが
森はそこに存在し続け、自然もなくならない。
人類が絶滅しても、自然は痛くも痒くもなく、
自然は自然であり続けるだけ。
なくなって困るというのは、偏に人の勝手な都合である。
石油が枯渇して便利な生活ができない。
空気が汚れて生態系が
文明と消費至上資本主義の欲のために
地球の自然資源という貯金を使い果たそうとしている。
木は口をきかない。
黙々と、やるべきことをやる、ただそれだけ。
Posted on 2014-06-09「もの」は生きている
日常と生活の中にモノがあふれるようになった。
100均に行けば何でも100円で手に入るという状況を
戦後の人はSFの世界にも想像できたであろうか。
今の日本社会で、モノがなくて困るということはまずない。
ということは、モノがなくて「困る」という経験をしにくいということであり
その経験がないということは、その場面で知恵を絞ることも無いというになる。
つまり、人は消費という洪水の中で思考停止に陥ったのだ。
何も考えなくても何となく行きていける。
生活の中で「機能」という表層的で無機質な一面だけが切り取られた。
「もの」には誰がどういう気持ちでどれだけの労力をかけてという
人が生きている証、生き甲斐を「大量生産大量消費」という文明の利器が奪ってしまった。
「もの」を買うということは、消費することではない。
作り手の舞台・生き様を体感できる価値とそれに見合う対価を交換することである。